Monday, August 9, 2010

愛は奉仕に向かう

わたしたちは主の愛を宣べ伝えるべきです。
 ことばによってではなく
 わたしたし自身の模範によって、行動によって
 愛の仕事はすべて、平和の仕事です。

わたしたちが存在している真の理由は
 神の愛の輝きとなること
 永遠の幸福の希望となること
 これが全てです


わたしたちはみんな神を愛したい。ではどうしたらよいのでしょう?
小さいイエスの聖テレーズはすばらしい模範です。
彼女は大きな愛をもって小さなことをしました。
平凡なことを非凡な愛で行ったのです。
だから彼女は偉大な聖人となったのです。
このすばらしい方法をわたしたちの実生活に活かせうるのではありませんか。


イエスはいのちの糧として、ひときれのパンよりもご自分を小さくすることがおできになったでしょうか?

もっと弱く、もっと無力な者になれたでしょうか?
ハンセン病の人よりもむごい姿になれたでしょうか?
そう、現に主はそのようになられたのです。
わたしたちはそれを知るべきです。

2+2=4であることをわたしは知っていますが、同様に、主が小さく、弱く無力なあの人の中におられることをも知るべきです。

何の動きもしない愛、そんな愛は無意味です。
愛を行動に移さなくてはなりません。
それが奉仕です。

では、神への愛をどのように行動に移せばよいのでしょうか?
それは自分の家族への忠実と
神からゆだねられた任務への忠実をとおしてです。
どんな状態であってもいいのです。
 たとえ有能でも、無能でも、
 金持ちでも、貧乏でも。
 大切なのは、どれほど多くを行ったかではなく
 行うにあたってどれほど多くの愛を注いだかなのです。
 - 生涯にわたって愛を他社と分かち合うことが求められているのです。


イエスのことばを確実に理解することができるために
イエスへの渇きいやすことができるために
イエスへの愛を満たすことができるために
イエスは御自分をいのちのパンとなさったのです。
しかし、主はそうまでなされても、満足されません。
主ご自身が飢える者となられたのです。
わたしたちの愛に対する主の飢えを
わたしたちがいやしてさしあげられるように。
それは、貧しい人々へのわたしたちの奉仕をとおして可能になるのです。
わたしたちは主の飢えを満たすのです。


いくつの資格をとったか、いくら稼いだか
どれほど偉大な業績をやり遂げたか
生涯の終わりにわたしたちが裁かれるのは
これらのことについてではありません。

わたしたちはキリストことばによって裁かれるんほです。
 「わたしが飢えていたときに食べさせてくれ
 裸であったときに服をくれ
 路頭に迷っていたときに助けてくれた」

パンだけではなく、愛に飢えている人。
服だけではなく、人間として尊厳や尊敬を奪われている人。
レンガの家がないだけではなく、受け入れてくれる人のいない人。
この人たちこそみじめな姿を取られたキリストなのです。


わたしは一般大衆を責任の対象と見なしたことは一度もありません。わたしは個人を相手にします。わたしは同時に一人しか愛せません。同時に一人しか食べさせることはできないのです。
対象はつねに一人なのです。
互いに親密になることによって、キリストと親密になるのです。
キリストが「わたしたちの兄弟の中の最も小さな人にしてくれたことはわたしにしてくれたこと」といわれるとおりです。
さあ、あなたも始めましょう - わたしも始めます。
わたしはかつて一人の人を助けました。

この一人を助けなかったら、今まで助けた、四万二千人の人をも助けることはできなかったでしょう。
このような仕事はすべて大海中の一滴に過ぎないものです。でも、この一滴を注がなくては、海の水は一滴分減るのです。

あなた自身にも、同じことが言えます。
あなたの家族にも、あなたの教会にも
同じことが言えるのです。
さあ、始めましょう - ひとつずつ、ひとつずつ。

Saturday, August 7, 2010

苦しみ - イエスのくちづけ

苦しみ -
苦痛、屈辱、病気、失敗 -
それは主のくちづけにおかなりません。

 かつてわたしは癌におかされた女性に出会う機会がありました。 
 彼女の苦しみは大変なものでした。
 わたしは彼女に話しかけました。 
 「今、あなたは十字架にかけられたイエスに
 近づいているのよ。
 その苦しみは主のくちづけなの」

 彼女は私の手を握りしめてこう言いました。
 「マザーテレサ
 どうぞわたしにくちづけをするのやめてくださるよう
 イエスに願ってください」
 それはとても美しい態度でした。
 彼女は理解していたのです。

苦しみは神からの贈り物なのです。
それによってわたしたちは、キリストに最も似た者となるのです。
苦しみを罰と受け取ってはなりません。

クリスマスにハンセン病患者に話をしました。
 あたなたちの負っている病気は神からの贈り物なのです。
 神はあなたたちを強く信頼しておられるから、その苦しみをお与えになったのです。
 あなたたちが味わっている孤独感は、イエスがこの世に来られたときに味わわれたものと同じなのです。
 イエスは人間として父のもと離れておられたので、人として生きられたので孤独になられたのです。

すると、体中をむしばまれた一人の男の人が、わたしのサリーをつかんでこう言うのです。

 「もう一度、もう一度おっしゃってください。
 この病気は神様の愛なのですね。
 マザーテレサ、苦しんでいる人たちは
 あなたの話の意味がよくわかるのです」

キリストはこの人々の中で確かに苦しみ続けておられます。
苦しむ兄弟姉妹の中にカルワリオを見ることができます。

わたしたちは「死を待つ人の家」の中で、臨終の人に、罪のゆるしと神との出会いをもたらす祝福を受けたいかどうかを尋ね、も望めば与えています。わたしたちは、全員が神の平和のうちに旅立てるように援助します。
死に行く人はみな、わたしたちが聖ペトロに見せる切符(天国への入場券)を配っていることを知っています。ここでは、神と仲直りせずに死んでいった人が一人でもいたと、私は思っていません。

わたしたちの間には偉大な人々がいます。
ただわたしたちがそれに気づいていないだけなのです。
その人たちとは、貧しい人々中でも最も貧しい人々

だれから望まれていない人
相手にされない人
はねつけられている人、アルコール依存症の人
足の不自由な人
目の見えない人
病気の人
死にかけている人
何も持たず、だれにも一緒にいてもらえない人たち。

彼らの生活そのもが祈りです。
その人たちは、わたしたちのために知らずにとりなし続けているのです。
だからこそわたしは、「死を待つ人の家」が、軽かったの教会の宝の家だと思っているのです。
そこにいる人々は、知らず知らずのうちに
わたしたちのためにとりなしてくれているのです。

イエスに最後まで従いたい人は皆
その苦しみにもあずからなければなりません。

勇気を持ちましょう。
苦しみを受け入れる勇気を持てるようにと祈る勇気を。
わたしたちは十分に祈らないので、人間的な面しか見ていないのです。
わたしたちは神の働かれる面を見ていません。
そのため、神を恨むのです。

今日の、苦しみについての誤解の大部分は、恨みと不満から生じているのです。

不満は、伝染しやすい病であり、
癌であり、
その中に怒りが潜んでいます。

苦しみには、清くなるため
聖化するため
キリストに似た者にするためにあるのです。

絶え間なく苦しむこの気高い人々がいなければ
この世界はどのようになってしまうのでしょうか。
これほどの威厳と愛をもって苦しむこ人々がいなければ。

臨終の男の人がわたしたちのシスターこう言いました。
「いよいよ神の家に帰ります」
彼は誰のことも恨みに思ってはいませんでした。
彼は自分の苦しみについては一言も言わず
ただ「神の家に帰ります」とだけ。
そして目を閉じ、神の家に帰ったのでした。
実に簡素で、美しい最期でした。
その男の人はイエスのもとに帰りました。
彼はt顔と顔を合わせて神と出会うために、帰っていきました。
彼のこころはそれほど純粋で美しかったのです。

わたしたちは貧しい人々の偉大さに気づいていません。
彼らがいか多くのことわたしたちのために与えているかをも -
これは驚くべきことなのです。