わたしたちは主の愛を宣べ伝えるべきです。
ことばによってではなく
わたしたし自身の模範によって、行動によって
愛の仕事はすべて、平和の仕事です。
わたしたちが存在している真の理由は
神の愛の輝きとなること
永遠の幸福の希望となること
これが全てです
わたしたちはみんな神を愛したい。ではどうしたらよいのでしょう?
小さいイエスの聖テレーズはすばらしい模範です。
彼女は大きな愛をもって小さなことをしました。
平凡なことを非凡な愛で行ったのです。
だから彼女は偉大な聖人となったのです。
このすばらしい方法をわたしたちの実生活に活かせうるのではありませんか。
イエスはいのちの糧として、ひときれのパンよりもご自分を小さくすることがおできになったでしょうか?
もっと弱く、もっと無力な者になれたでしょうか?
ハンセン病の人よりもむごい姿になれたでしょうか?
そう、現に主はそのようになられたのです。
わたしたちはそれを知るべきです。
2+2=4であることをわたしは知っていますが、同様に、主が小さく、弱く無力なあの人の中におられることをも知るべきです。
何の動きもしない愛、そんな愛は無意味です。
愛を行動に移さなくてはなりません。
それが奉仕です。
では、神への愛をどのように行動に移せばよいのでしょうか?
それは自分の家族への忠実と
神からゆだねられた任務への忠実をとおしてです。
どんな状態であってもいいのです。
たとえ有能でも、無能でも、
金持ちでも、貧乏でも。
大切なのは、どれほど多くを行ったかではなく
行うにあたってどれほど多くの愛を注いだかなのです。
- 生涯にわたって愛を他社と分かち合うことが求められているのです。
イエスのことばを確実に理解することができるために
イエスへの渇きいやすことができるために
イエスへの愛を満たすことができるために
イエスは御自分をいのちのパンとなさったのです。
しかし、主はそうまでなされても、満足されません。
主ご自身が飢える者となられたのです。
わたしたちの愛に対する主の飢えを
わたしたちがいやしてさしあげられるように。
それは、貧しい人々へのわたしたちの奉仕をとおして可能になるのです。
わたしたちは主の飢えを満たすのです。
いくつの資格をとったか、いくら稼いだか
どれほど偉大な業績をやり遂げたか
生涯の終わりにわたしたちが裁かれるのは
これらのことについてではありません。
わたしたちはキリストことばによって裁かれるんほです。
「わたしが飢えていたときに食べさせてくれ
裸であったときに服をくれ
路頭に迷っていたときに助けてくれた」
パンだけではなく、愛に飢えている人。
服だけではなく、人間として尊厳や尊敬を奪われている人。
レンガの家がないだけではなく、受け入れてくれる人のいない人。
この人たちこそみじめな姿を取られたキリストなのです。
わたしは一般大衆を責任の対象と見なしたことは一度もありません。わたしは個人を相手にします。わたしは同時に一人しか愛せません。同時に一人しか食べさせることはできないのです。
対象はつねに一人なのです。
互いに親密になることによって、キリストと親密になるのです。
キリストが「わたしたちの兄弟の中の最も小さな人にしてくれたことはわたしにしてくれたこと」といわれるとおりです。
さあ、あなたも始めましょう - わたしも始めます。
わたしはかつて一人の人を助けました。
この一人を助けなかったら、今まで助けた、四万二千人の人をも助けることはできなかったでしょう。
このような仕事はすべて大海中の一滴に過ぎないものです。でも、この一滴を注がなくては、海の水は一滴分減るのです。
あなた自身にも、同じことが言えます。
あなたの家族にも、あなたの教会にも
同じことが言えるのです。
さあ、始めましょう - ひとつずつ、ひとつずつ。
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