わたしたちは神の似姿として
人となられたイエスの似姿としてつくられています。
すべての子供は、もっとも偉大なことのためにこの世に生まれます。
- 愛し、愛されるためです。
いのちのほかならぬ初めから
いのちが生じたその瞬間から
受胎のときから
そのいのちは神のいのち
- 生きている神のいのちなのです。
だからこそ、いのちの抹殺はひどい悪事なのです。
- それは神の似姿の破壊だからです。
イエスの愛を学ぶのに一番よい道、確実な道は家庭である。
何であれ
あなたたちが家族の中ですること
子供のためにすること
夫のためにすること
妻のためにすることは
イエスのためにすることです。
家族がともに祈るならば、家庭の一致は保てます。その家族は互いに愛し合うでしょう。五分間、一緒にいるだけでいいのです。
「天にましますわれらの父よ」と始めるだけでいいのです!
「主よ、あなたを愛します。
主よ、お許しください。
主よ、あなたを信じます。
主よ、あなたに頼ります。
あなたがわたしたちを愛してくださるように
わたしたちも互いに愛し合えるようお助けください」
と祈ればいいのです。
祈りを通じて学びあうとき、そこからあなたがたの力が生まれてきます。
現代社会のトラブルの多くは家庭の崩壊が原因です。母親も父親も忙しすぎて家にはいません。
子供たちが学校から帰ってきても、そこには
自分たちを迎えてくれる人も
かまってくれる人も
励ましてくれる人も
一緒に喜んでくれる人もいないのです。
子供たちは、自分たちを受け入れてくれる人
愛してくれる人
ほめてくれる人
誇りに思ってくれる人を求めています。
そのような人がいなければ、子供たちは路上をうろつきます。そこには子供たちを狙っている大人がたくさんいます。こうして、子供は餌食になるのです。多くの憎しみと破壊は、子供と家庭のつながりが断ち切られたところに生じるのです。聖母とヨセフのように、わたしたちも子供を探しに出かけなければなりません。イエスが行方不明になったとき、彼らは来た未知を戻って探しに行きました。決して座り込んで待っていたわけではありません。見つけ出すまで、休みも取りませんでした。
わたしたちも子供を連れ戻し、彼らがあいされていることを感じさせなければなりません。
子供のいないところには希望もありません。
ある時、とても悲しげな様子をした婦人がやってきました。彼女は、夫と子供を亡くした娘のことをわたしに話しました。その娘は母親に八つ当たりをして、母親と目を合わそうともしないというのです。
わたしはこのように言いました。「それでは、娘さんが子供の頃、好きだった小さなことでも思い出してみてはいかがですか。たとえば、花だとか、食べ物だとか。そして見返りを期待せずに、それらのものを娘さんに差し上げてみるのです:」
それからというもの、その母親は、たとえばテーブルの上に娘の好きな花を飾ってみたり、きれいな布地を娘のためにそこに置いたりしました。娘の反応は期待せずに。
何日かたって、娘は母親を呼んでこのように言いました。
「かあさん、来て、大好き!一緒にいて」
それはとても美しい光景でした。
子供時代の喜びを思い出すことによって、その娘は、家族との絆を取り戻したのでした。きっと、その娘には母の愛の幸せと喜びに戻れる幸福な子供時代があったのでしょう。
愛は家庭から始まります。
もし四六時中ともに生活している人を愛せないのなら
どうやって一度しか会わない人を愛することができるでしょうか。
思いやりや親切によって
喜びを分け与えることによって
ほほえみを投げかけることによって
ささいなことを通してでも愛をあらわすことができます。
幼い子はなんの困難も障害もなく愛することが出来ます。
だからイエスはこう言われたのです。
「幼子のようにならなければー」
両親が神のことを話題にするのを聞くことは、子供にとってとても大切なことです。
子供はきっと神について尋ねるようになるでしょう。
いつだったか、ある共産党員にひとつの祈りを教えたことがありました。彼が家族にそれを伝えると、子供たちはその祈りをするようになりました。
後にわたしと会ったとき、彼はこのように言いました。「マザー・テレサ、あなたの祈りや写真が、どれほど家族を揺さぶるものであるか知らないでしょう。わたしの子供は、神様ってどんな方、としきりに尋ねるのです。マザー・テレサが何でこんなふうに神について話ができるのか知りたがるのです。」
子供たちは飢えています。
だから私たちが一緒に祈らなくてはならないのです。
祈ること、互いに愛し合うこと。
悲しみを分かち合うこと、一緒に喜ぶこと。
両親が手本を示せば、子供たちがこれらのことを忘れることは決してないでしょう。
子供たちはじっと見ています。
そして、見ながら成長していくのです。
自分たちの生き方の大切さを、子供たちは親の生き方を見ながら学んでいくのです。
神はご自分の愛の証をさせるため夫と妻と子供たちを家庭に送られました。
かつて、私は六歳か七歳の女の子を路上で保護し、「シシュ・バビン(子供の家)」に連れて行きました。そこで、その子を風呂にいれ、着替えさせ、ごちそうしました。ところがその晩、彼女は逃げ出しました。
二度、三度とその子は保護されましたが、その度に逃げ出すのです。
三度目のときは、シスターにあとを追ってもらいました。そのシスターはその子がお母さんと妹と一緒に木の下に座っているのを見つけました。小さな皿を前にして、お母さんは道から拾ってきたものを料理していたのです。
彼らはそこで料理をし、食事をし、眠るのです。
そこが彼らの家なのです。
それでその子が逃げ出した理由がわかりました。お母さんはその子を本当に愛しているのです。そして、その子もお母さんのことが大好きなのです。二人はお互いに、とても大切な存在なのです。
その子は「バリジャポ(ここがわたしの家なの)」と言いました。
お母さんこそ、彼女の家だったのです。
何百人という数のアメリカやヨーロッパの若者が、ヒンズー教に魅せられて
ここインドにやってきます。若者は何かを求めているのです。
わたしはいつもこう問いかけます。
「イエスではもの足りないのですか?」
若者たちにイエスの姿を示さなくてはなりません。
彼らが顔を上げてイエスを見つめることができるように。
そして、彼らが家庭の中にイエスを発見することができるように。
現代社会には、愛する喜びを枯れさせる多くの要因があります。人々は、あり余るほど持っていても、さらに物を欲しがります。人々は不満で一杯なのです。
六、七人の子供をかかえたオーストラリアのある家族は、互いに話し合った上で、新しいテレビを買わないことにしました。彼らは一緒にいられることの喜びを大切にしたかったのです。家族のメンバーがそろっていられるだけで十分だったのです。
テレビを買うはずだったお金をアボリジニーの貧しい人たちのために役立てて欲しいと、その家族はわたしに送ってくれました。
こうして、その家族は、分裂のもとと考えられる何かに、言い換えれば、愛する喜びを妨げるものに打ち勝つことができたのです。そしてその家族は、一緒に分け合うこと、
話し合うこと
笑うこと
愛すること
冗談を言い合うことを学んだのです。
家族全体が喜んでいるのです。
Friday, July 30, 2010
Thursday, July 29, 2010
祈りはわたしたちのこころを新たにする
こころを新たにしなさいー。
こころを新たにしなければ
わたしたちは回心することができないのです。
場所を変えても、仕事を変えても
それだけではわたしたちは回心できません。
ただこころを新たにするしかないのです。
でも、どうやって?
祈ることによってです。
こころを新たにする一番たしかな方法は
ゆるしの秘跡を受け、
ご聖体を拝領して、主と一致することです。
そのとき、わたしは平和で満たされます。
祈りは喜び、
祈りは愛
祈りは平和
これは口で説明できるものではありません。
祈りは体験しなければならないのです。
それは不可能なことではありません。
神は求めるものにそれを与えてくださいます。
「求めよ、そうすれば与えられる」
父親は、子供たちに何を与えればよいかを知っているではありませんか。
天の父なら、なおさらです。
祈りは沈黙から始まります
神は静かなこころに語りかけます。
わたしたちは満たされた心で神に話し始めるのです。
神はじっと聞いてくださいます。
祈りは聖書から始まります。
話しかける神に耳を傾けるのです。
神のことばでいっぱいになったこころで神にお話するのです。
神はじっと聞いてくださいます。
ともに聞きあい、ともに語り合う。これが本当の祈りです。
祈るためには清いこころが必要です。
清いこころで神を見ることができます。
イエスを愛し、イエスの生き方を生きるには
清いこころが必要です。
ラザロの生き方、マリアの生き方
ご聖体の生き方、ご受難の生き方
主がわたしたちに用意してくださっている生き方を。
生きているのはわたしたちではなく
わたしたちのうちに生きるべきお方が生きておられるのです。
わたしたちの中でイエスにご自分の生き方を生きていただくこと
それが祈りです。
イエスにそうしていただけばいただくほど
わたしたちはキリストに似た者として成長していくのです。
神がわたしたちを愛しておられることを知るために
祈らなければなりません。
イザヤは次のような神の美しいことば記しています。
「わたしはあなたの名前を呼んだ。あなたはわたしのもの。
大水があなたを襲うことはなきう
火の粉があなたに降りかかることもない。
わたしは国々をあなたの手に引き渡す。
あなたはわたしにとって大切なものなのだから。」
神はわたしたちのことを大切に思っておられます。
道端で死にゆくあの人も
あの大富豪も
あの罪人も
神にとっては皆、大切なのです。
神はわたしたちを愛しておられるのです。
祈りの実りは、信仰の始まりです。
信仰の実りは愛です。
愛の実りは奉仕です。
しかし、祈るためには
こころの静けさが必要です。
わたしたちのこころは、静かなところに退いて祈るために、
また、口や目や全身を使って祈るために、時間が必要です。
その静けさがないならば、どうやって祈ればよいのか、わからなくなるでしょう。
この祈りを広め、わたしたちの生活に生かすことができれば、大きな影響を受けるでしょう。この祈りはイエスに満ちています。「神の愛の宣教者会」の生活を特徴づけているのはこの祈りなのです。
愛するイエスよ
わたしたちがどこにいても、あなたの香りを
ただよわすことができるように助けてください。
あなたの霊といのちで、わたしたちのこころ満たしてください。
私たちのいのちのすべてが
あなたのいのちの輝きそのものになるほどに
わたしたちの中に入り、完全にあなたのものにしてください。
わたしたちをとおして、わたしたちの中で輝いてください。
わたしたちの接する人が皆
あなたの現存をわたしたちのこころに感じ取り
わたしたちではなくあなたを見つめることができるようにしてください。
わたしたちと一緒にいてください。
そうすれば、あなたと同じようにわたしたちも輝き出し
隣人を照らす光となることができるからです。
イエスよ、光はすべてあなたから発するのです。
わたしたちからではありません。
わたしたちをとおして人を照らすのはあなたなのです。
わたしたちの周りにいる人を照らし、
あなたの一番望まれる方法で、あなたを称えられるようにしてください。
あなたを宣べ伝えさせてください。
ことばによってではなく、わたしたち自身の模範によって
人をとらえる力によって、人のこころに共感を呼び起こす行動によって。
わたしたちのこころに満ちるあなたへの愛の証によって。
あなたを知らせることができますように。
調子のいいとき、悪いとき、病気のとき、悩みのときがあります。
それらはみな、十字架の一部です。イエスに完全にならおうとするなら、
主のご受難にもあずからなければなりません。
だから祈らなければならないのです。
だから命のパンが要るのです。
だから礼拝するのです。
だから罪のゆるしを受けるのです。
わたしたちは多くのことを複雑にしてしまうように、祈りについても難しく考えてしまいます。
でも、それは、分かたれない愛でイエスを愛するーあなたにとっても、わたしにとっても、誰にとっても、ただそのことなのです。
「わたしが愛したようにあなた方も愛し合いなさい」とイエスが言われたとおりにするとき、その愛が行動に移されるのです。
こころを新たにしなければ
わたしたちは回心することができないのです。
場所を変えても、仕事を変えても
それだけではわたしたちは回心できません。
ただこころを新たにするしかないのです。
でも、どうやって?
祈ることによってです。
こころを新たにする一番たしかな方法は
ゆるしの秘跡を受け、
ご聖体を拝領して、主と一致することです。
そのとき、わたしは平和で満たされます。
祈りは喜び、
祈りは愛
祈りは平和
これは口で説明できるものではありません。
祈りは体験しなければならないのです。
それは不可能なことではありません。
神は求めるものにそれを与えてくださいます。
「求めよ、そうすれば与えられる」
父親は、子供たちに何を与えればよいかを知っているではありませんか。
天の父なら、なおさらです。
祈りは沈黙から始まります
神は静かなこころに語りかけます。
わたしたちは満たされた心で神に話し始めるのです。
神はじっと聞いてくださいます。
祈りは聖書から始まります。
話しかける神に耳を傾けるのです。
神のことばでいっぱいになったこころで神にお話するのです。
神はじっと聞いてくださいます。
ともに聞きあい、ともに語り合う。これが本当の祈りです。
祈るためには清いこころが必要です。
清いこころで神を見ることができます。
イエスを愛し、イエスの生き方を生きるには
清いこころが必要です。
ラザロの生き方、マリアの生き方
ご聖体の生き方、ご受難の生き方
主がわたしたちに用意してくださっている生き方を。
生きているのはわたしたちではなく
わたしたちのうちに生きるべきお方が生きておられるのです。
わたしたちの中でイエスにご自分の生き方を生きていただくこと
それが祈りです。
イエスにそうしていただけばいただくほど
わたしたちはキリストに似た者として成長していくのです。
神がわたしたちを愛しておられることを知るために
祈らなければなりません。
イザヤは次のような神の美しいことば記しています。
「わたしはあなたの名前を呼んだ。あなたはわたしのもの。
大水があなたを襲うことはなきう
火の粉があなたに降りかかることもない。
わたしは国々をあなたの手に引き渡す。
あなたはわたしにとって大切なものなのだから。」
神はわたしたちのことを大切に思っておられます。
道端で死にゆくあの人も
あの大富豪も
あの罪人も
神にとっては皆、大切なのです。
神はわたしたちを愛しておられるのです。
祈りの実りは、信仰の始まりです。
信仰の実りは愛です。
愛の実りは奉仕です。
しかし、祈るためには
こころの静けさが必要です。
わたしたちのこころは、静かなところに退いて祈るために、
また、口や目や全身を使って祈るために、時間が必要です。
その静けさがないならば、どうやって祈ればよいのか、わからなくなるでしょう。
この祈りを広め、わたしたちの生活に生かすことができれば、大きな影響を受けるでしょう。この祈りはイエスに満ちています。「神の愛の宣教者会」の生活を特徴づけているのはこの祈りなのです。
愛するイエスよ
わたしたちがどこにいても、あなたの香りを
ただよわすことができるように助けてください。
あなたの霊といのちで、わたしたちのこころ満たしてください。
私たちのいのちのすべてが
あなたのいのちの輝きそのものになるほどに
わたしたちの中に入り、完全にあなたのものにしてください。
わたしたちをとおして、わたしたちの中で輝いてください。
わたしたちの接する人が皆
あなたの現存をわたしたちのこころに感じ取り
わたしたちではなくあなたを見つめることができるようにしてください。
わたしたちと一緒にいてください。
そうすれば、あなたと同じようにわたしたちも輝き出し
隣人を照らす光となることができるからです。
イエスよ、光はすべてあなたから発するのです。
わたしたちからではありません。
わたしたちをとおして人を照らすのはあなたなのです。
わたしたちの周りにいる人を照らし、
あなたの一番望まれる方法で、あなたを称えられるようにしてください。
あなたを宣べ伝えさせてください。
ことばによってではなく、わたしたち自身の模範によって
人をとらえる力によって、人のこころに共感を呼び起こす行動によって。
わたしたちのこころに満ちるあなたへの愛の証によって。
あなたを知らせることができますように。
調子のいいとき、悪いとき、病気のとき、悩みのときがあります。
それらはみな、十字架の一部です。イエスに完全にならおうとするなら、
主のご受難にもあずからなければなりません。
だから祈らなければならないのです。
だから命のパンが要るのです。
だから礼拝するのです。
だから罪のゆるしを受けるのです。
わたしたちは多くのことを複雑にしてしまうように、祈りについても難しく考えてしまいます。
でも、それは、分かたれない愛でイエスを愛するーあなたにとっても、わたしにとっても、誰にとっても、ただそのことなのです。
「わたしが愛したようにあなた方も愛し合いなさい」とイエスが言われたとおりにするとき、その愛が行動に移されるのです。
Thursday, July 15, 2010
神の家族
あなたを形造られた愛の手が、わたしをも造ってくださったのです。もしもその方があなたの「父」であるなら、わたしの「父」でもあるはずです。わたしたちは同じ家族の一員です。ヒンズー教徒も、イスラム教徒も全ての人は兄弟姉妹なのです。彼らも神の子供なのです。
ヒンズー教徒の間にあるわたしたちの仕事は、神が彼らを愛し、神が彼らを造り、彼らがわたしたちの兄弟姉妹であることの喜びを彼らにも味わってもらえればよいと思っています。それはしかし、わたしの力でできることではありません。神だけがなさることです。信仰は神からの贈り物です。しかし、神は信仰を強要されません。
キリスト教徒もイスラム教徒もヒンズー教徒も、信じている人も信じていない人も、誰でも共に愛を持って働くことができます。誰でも共に愛することの喜びを分かち合い、神がともにおられることに気づくことができます。その時、ヒンズー教徒はより良いヒンズー教徒に、イスラム教徒はより良いイスラム教徒に、キリスト教徒はより良いキリスト教徒になれるのです。
ヒンズー教徒の間にあるわたしたちの仕事は、神が彼らを愛し、神が彼らを造り、彼らがわたしたちの兄弟姉妹であることの喜びを彼らにも味わってもらえればよいと思っています。それはしかし、わたしの力でできることではありません。神だけがなさることです。信仰は神からの贈り物です。しかし、神は信仰を強要されません。
キリスト教徒もイスラム教徒もヒンズー教徒も、信じている人も信じていない人も、誰でも共に愛を持って働くことができます。誰でも共に愛することの喜びを分かち合い、神がともにおられることに気づくことができます。その時、ヒンズー教徒はより良いヒンズー教徒に、イスラム教徒はより良いイスラム教徒に、キリスト教徒はより良いキリスト教徒になれるのです。
Wednesday, July 14, 2010
イエスのためにします
わたしたちのしている仕事は、イエスへの愛が行動となってあらわれたものにほかなりません。
それは貧しい人のみじめな姿をとっておられるキリストへの心のこもった自由な奉仕なのです。貧しい人の中でも最も貧しい人である、キリストへの贈り物です。
わたしたちにとって仕事が祈りになるならば、イエスに向けて、イエスのために、イエスと共にするならば、わたしたちは満足なのです。
「神の愛の宣教者会」の会員たちが世の中のまっただ中にあって真の観想者である、わたしが思う理由はここにあるのです。
わたしはイエスのためにしていると信じているので、この仕事をするのです。これは確かに主の仕事です。そうです、これは主の仕事であって、わたしの仕事ではないのです。
神を愛していることどのように証明したらいいのでしょうか。キリストを貞潔と徹底した愛で愛していることをどのように、あらわしたらいいのでしょうか。それは貧しい人のたちの中でも最も貧しい人に全力で心から奉仕することによってです。それは主ご自身への奉仕なのだと、わたしたちは信じています。もし主のためでなかったなら、何の意味も持ちません。ニューデリーの社会福祉省の大臣はヒンズー教徒です。あるとき彼はわたしにこう言いました。「あなたとわたしは同じ社会事業をしています。でも大きな違いがあるのです。わたしたちは<何か>のためにこれをしているのに、あなたたちは<誰か>に向かってしているのですね」その通りです。これがわたしたちの働く理由なのです。
もしもあなたが貧困について論じ合う人々にかかわっているなら、貧しい人に話しかける時間はなくなってしまいます。ある人たちは飢餓について議論しますが、わたしのところに来て「マザー、この5ルピーでこの人たちにパンを買ってあげてください」と言ってはくれないのです。それでいて、彼らは飢餓について見事な弁舌で聴衆を感動させるような話をするのです。
ボンベイの町で、こんな強烈な体験をしたことがあります。あるときそこで飢餓についても大きな会議がありました。わたしはそれに参加しようと思っていたのですが、道に迷ってしまったのです。会場に着くと、そこ死にかかっている一人の男の人を見つけました。何百人もの人が食料問題と飢餓について会議をしているその扉のすぐ前で。
わたしは彼を抱き上げ、家につれて帰りました。彼はそこで息を引き取りました。その人は飢えで死んだのです。
人々が扉の向こうで、今後十五年間にどれくらい食料が得られるとか何とか話し合っているその時に、あの男の人は死んでいったのです。
どこか間違ってはいませんか。
主が来て、しばしの休息をとることができる - わたしたちは、そのようなナザレの家をここにつくりたいのです。イエスはわたしたちの中の一人としてとどまるために、貧しくならなくてはいけなかったのです。
イエスは、必要とされない、愛してもらえない、相手にしてもらえない、そんな人の気持ちを知るために、小さく、そして弱く、助けを必要としながら誰にも頼れず、孤独な人となる必要があったのです。
母マリア以外に、彼が誰であるかを知る人はいなかったのです。イエスは大工ヨセフ息子とみなされ、人々はナザレから優れた人物が出るはずはない、と言ったのです。
神がこの世界を愛しておられることを宣言するために、わたしたちは小さく無力な人になる - これがわたしたちのしようとしていることなのです。これがわたしたちの宣べ伝えようとしている「よき知らせ」なのです。
思いやりと分かちあいは共同体をつくりあげるものです。小さなことをとおして大きな愛を目指す - それはほほえむことバケツで水を運ぶのを手伝うこと、食卓でのちょっとしtが気づかいかもしれません。小さな、小さなことなのです。
そして、互いに分かち合い、かかわりあい続けること - ミサを共に、聖体拝領を共に、礼拝を共に、ゆるしの秘跡を共に受けること、これによって人々の苦しみを分かち合い、理解し合うことができるためです。わたしたちは何でも共にします。それがわたしたちの持つ力なのです。
シスターたちはいつもほほえんでいます。わたしたちはとても自由です - 本当に自由です。
物質的な心配に人々はどれほど、ふりまわされていることでしょうか。多く持つことが幸せとされている先進国の世界でわたしは何度となく見たのです。どんなに着飾っている人々でも、実は本当の乏しさにあえいでいることを。
何も持たないことにより、わたしたちはすべてを与えることができるのです。 - 貧しさという自由を通して。
わたしたちの召し出しは、何もだれもわたしたちを主から引き離すことができないという確信をもって、主に属する者となることです。イエスは、愛とやさしさと生涯にわたる誠実な親しい友情をわたしたち一人ひとり結んでくださいました。イエス自身がわたしたちを花嫁として迎えてくださったのです。
だからわたしたちもキリストへの貞潔における徹底した愛を、わたしたちの存在を通して行動にうつさなくてはならないのです。この行動的な愛とは、貧しい人たちの中でも最も貧しい人にする奉仕です。わたしの存在は祈りの生活、キリストとの交わり、キリストとひとつになること、ご聖体のうちに生きておられる方を行動に生かすことなのです。
主は善を行いながらいきめぐられました。だから、わたしたちも今、主にならいたいのです。なぜなら、神がわたしたちを通して世を愛しておられることを信じているからです。神はかつてご自分の愛、ご自分の現存を示すためにイエスを世に遣わされたように、今日この時、わたしたちを遣わしているのです。
それは貧しい人のみじめな姿をとっておられるキリストへの心のこもった自由な奉仕なのです。貧しい人の中でも最も貧しい人である、キリストへの贈り物です。
わたしたちにとって仕事が祈りになるならば、イエスに向けて、イエスのために、イエスと共にするならば、わたしたちは満足なのです。
「神の愛の宣教者会」の会員たちが世の中のまっただ中にあって真の観想者である、わたしが思う理由はここにあるのです。
わたしはイエスのためにしていると信じているので、この仕事をするのです。これは確かに主の仕事です。そうです、これは主の仕事であって、わたしの仕事ではないのです。
神を愛していることどのように証明したらいいのでしょうか。キリストを貞潔と徹底した愛で愛していることをどのように、あらわしたらいいのでしょうか。それは貧しい人のたちの中でも最も貧しい人に全力で心から奉仕することによってです。それは主ご自身への奉仕なのだと、わたしたちは信じています。もし主のためでなかったなら、何の意味も持ちません。ニューデリーの社会福祉省の大臣はヒンズー教徒です。あるとき彼はわたしにこう言いました。「あなたとわたしは同じ社会事業をしています。でも大きな違いがあるのです。わたしたちは<何か>のためにこれをしているのに、あなたたちは<誰か>に向かってしているのですね」その通りです。これがわたしたちの働く理由なのです。
もしもあなたが貧困について論じ合う人々にかかわっているなら、貧しい人に話しかける時間はなくなってしまいます。ある人たちは飢餓について議論しますが、わたしのところに来て「マザー、この5ルピーでこの人たちにパンを買ってあげてください」と言ってはくれないのです。それでいて、彼らは飢餓について見事な弁舌で聴衆を感動させるような話をするのです。
ボンベイの町で、こんな強烈な体験をしたことがあります。あるときそこで飢餓についても大きな会議がありました。わたしはそれに参加しようと思っていたのですが、道に迷ってしまったのです。会場に着くと、そこ死にかかっている一人の男の人を見つけました。何百人もの人が食料問題と飢餓について会議をしているその扉のすぐ前で。
わたしは彼を抱き上げ、家につれて帰りました。彼はそこで息を引き取りました。その人は飢えで死んだのです。
人々が扉の向こうで、今後十五年間にどれくらい食料が得られるとか何とか話し合っているその時に、あの男の人は死んでいったのです。
どこか間違ってはいませんか。
主が来て、しばしの休息をとることができる - わたしたちは、そのようなナザレの家をここにつくりたいのです。イエスはわたしたちの中の一人としてとどまるために、貧しくならなくてはいけなかったのです。
イエスは、必要とされない、愛してもらえない、相手にしてもらえない、そんな人の気持ちを知るために、小さく、そして弱く、助けを必要としながら誰にも頼れず、孤独な人となる必要があったのです。
母マリア以外に、彼が誰であるかを知る人はいなかったのです。イエスは大工ヨセフ息子とみなされ、人々はナザレから優れた人物が出るはずはない、と言ったのです。
神がこの世界を愛しておられることを宣言するために、わたしたちは小さく無力な人になる - これがわたしたちのしようとしていることなのです。これがわたしたちの宣べ伝えようとしている「よき知らせ」なのです。
思いやりと分かちあいは共同体をつくりあげるものです。小さなことをとおして大きな愛を目指す - それはほほえむことバケツで水を運ぶのを手伝うこと、食卓でのちょっとしtが気づかいかもしれません。小さな、小さなことなのです。
そして、互いに分かち合い、かかわりあい続けること - ミサを共に、聖体拝領を共に、礼拝を共に、ゆるしの秘跡を共に受けること、これによって人々の苦しみを分かち合い、理解し合うことができるためです。わたしたちは何でも共にします。それがわたしたちの持つ力なのです。
シスターたちはいつもほほえんでいます。わたしたちはとても自由です - 本当に自由です。
物質的な心配に人々はどれほど、ふりまわされていることでしょうか。多く持つことが幸せとされている先進国の世界でわたしは何度となく見たのです。どんなに着飾っている人々でも、実は本当の乏しさにあえいでいることを。
何も持たないことにより、わたしたちはすべてを与えることができるのです。 - 貧しさという自由を通して。
わたしたちの召し出しは、何もだれもわたしたちを主から引き離すことができないという確信をもって、主に属する者となることです。イエスは、愛とやさしさと生涯にわたる誠実な親しい友情をわたしたち一人ひとり結んでくださいました。イエス自身がわたしたちを花嫁として迎えてくださったのです。
だからわたしたちもキリストへの貞潔における徹底した愛を、わたしたちの存在を通して行動にうつさなくてはならないのです。この行動的な愛とは、貧しい人たちの中でも最も貧しい人にする奉仕です。わたしの存在は祈りの生活、キリストとの交わり、キリストとひとつになること、ご聖体のうちに生きておられる方を行動に生かすことなのです。
主は善を行いながらいきめぐられました。だから、わたしたちも今、主にならいたいのです。なぜなら、神がわたしたちを通して世を愛しておられることを信じているからです。神はかつてご自分の愛、ご自分の現存を示すためにイエスを世に遣わされたように、今日この時、わたしたちを遣わしているのです。
イエス - いのちの糧
主のおられるところには、喜びがあり、平和があり、愛があります。
わたしたちのいのちが愛と喜びに満ちたものとなるために、イエスは御自分をいのちの糧とされたのです。
イエス以外のだれもこのような仕方で自分自身を与えることはできません。そして主はご聖体のうちにいつでもいてくださるのです。
わたしたちに求められているのは、それに気づくことだけです。
イエスははっきろと言われました。
わたしは、あたなが愛すべき愛、生きるべきいの、分け与えるべき喜びである。
わたしは、あなたがたべなくてはならないパン、飲まなくてはならない血、語らなくてはならない真実、灯さなくてはならない光、与えなくてはならない平和である。
イエスはわたしすべてなのです。
イエスはいつもそこにおられます。
わたしたちを愛し、わたしたちに分け与え、わたしたちの人生の喜びとなってくださるために。
イエスの愛は無条件で、やさしく、ゆるしに満ちていて、完全。
損得を計算せず、限度を置かず、見返りを求めない。
イエスは傷ついてまでもお与えになるのです。
まことの愛は傷つきます。
ある子供は、愛するがゆえに苦しみました。
三日のあいだ砂糖をなめるのを我慢したからです。
父なる神は痛みを負いました。
最愛の子をお与えになったからです。
イエスも痛み負いました
あなたとわたしを愛するために。
人々があなたのうちにイエスを見ることができるような生き方をしなさい。
あなたの祈りのうちに、あなたの清い生き方のうちに、あなたの家族との接し方のうちに、あなたの家庭にあふれる平和のうちに。
その時、あなたは彼らの目をまっすぐに見て言うことができます。
「これが生き方だ」と。
あなたは生活をとおし、体験をとおしてイエス物語っているのです。
何週間か前のこと、パリ大学に在学中のフランス人女性がこちらに来ました。彼女は博士号を目指して勉強中でした。いきなり彼女はわたしのところに来て言うのです。「イエスを見つけました」と。わたしは聞き返しました。「見つけたって、どこで」「死を待つ人の家で」「イエスを見つけてから、どうしましたか?」「わたしはゆるし秘跡を受け、ご聖体を拝領しました」彼女は十五年もの間、秘跡から遠ざかっていたのです。「それから?」「両親に電報を打ちました。『わたしはイエスを見つけた』と」
はるばるパリから来て、死を待つ人々と出会い、彼女は主を見つけたのです。
聖母にとって天使のお告げは、イエスが彼女の人生の中に入って来られた時でした。それは、マリアにとって「初聖体」の日だったのです。
マリアはこのあと素晴らしいことをしました。イエスが胎内にいることを知ったマリアは、すぐに出かけました。身ごもっていた、いとこのエリザベトのところに行ったのです。エリザベトの胎内の子がその時どうしたか、知っているでしょう。
キリストと出会って喜び踊ったのです。その子はイエスの到来を宣言した最初の人になりました。
主の到来を最初に宣言する恵みを得たのは、まだ生まれる前の子供だったのです。驚くべきことだと思いませんか。
本当に神はわたしたちのことが好きでたまりません。たとえば、どんなに罪が多くても、ゆるしの秘跡にあずかれば清められて戻れるのです。これ以上に大きな愛がありますか?それは人が理解しきれないものなのです。イエスはくりかえし言っておられます。「わたしが愛したようにあなたがたも愛し合いなさい」わたしたちもイエスのようにゆるさなければなりません。
わたしたちのいのちが愛と喜びに満ちたものとなるために、イエスは御自分をいのちの糧とされたのです。
イエス以外のだれもこのような仕方で自分自身を与えることはできません。そして主はご聖体のうちにいつでもいてくださるのです。
わたしたちに求められているのは、それに気づくことだけです。
イエスははっきろと言われました。
わたしは、あたなが愛すべき愛、生きるべきいの、分け与えるべき喜びである。
わたしは、あなたがたべなくてはならないパン、飲まなくてはならない血、語らなくてはならない真実、灯さなくてはならない光、与えなくてはならない平和である。
イエスはわたしすべてなのです。
イエスはいつもそこにおられます。
わたしたちを愛し、わたしたちに分け与え、わたしたちの人生の喜びとなってくださるために。
イエスの愛は無条件で、やさしく、ゆるしに満ちていて、完全。
損得を計算せず、限度を置かず、見返りを求めない。
イエスは傷ついてまでもお与えになるのです。
まことの愛は傷つきます。
ある子供は、愛するがゆえに苦しみました。
三日のあいだ砂糖をなめるのを我慢したからです。
父なる神は痛みを負いました。
最愛の子をお与えになったからです。
イエスも痛み負いました
あなたとわたしを愛するために。
人々があなたのうちにイエスを見ることができるような生き方をしなさい。
あなたの祈りのうちに、あなたの清い生き方のうちに、あなたの家族との接し方のうちに、あなたの家庭にあふれる平和のうちに。
その時、あなたは彼らの目をまっすぐに見て言うことができます。
「これが生き方だ」と。
あなたは生活をとおし、体験をとおしてイエス物語っているのです。
何週間か前のこと、パリ大学に在学中のフランス人女性がこちらに来ました。彼女は博士号を目指して勉強中でした。いきなり彼女はわたしのところに来て言うのです。「イエスを見つけました」と。わたしは聞き返しました。「見つけたって、どこで」「死を待つ人の家で」「イエスを見つけてから、どうしましたか?」「わたしはゆるし秘跡を受け、ご聖体を拝領しました」彼女は十五年もの間、秘跡から遠ざかっていたのです。「それから?」「両親に電報を打ちました。『わたしはイエスを見つけた』と」
はるばるパリから来て、死を待つ人々と出会い、彼女は主を見つけたのです。
聖母にとって天使のお告げは、イエスが彼女の人生の中に入って来られた時でした。それは、マリアにとって「初聖体」の日だったのです。
マリアはこのあと素晴らしいことをしました。イエスが胎内にいることを知ったマリアは、すぐに出かけました。身ごもっていた、いとこのエリザベトのところに行ったのです。エリザベトの胎内の子がその時どうしたか、知っているでしょう。
キリストと出会って喜び踊ったのです。その子はイエスの到来を宣言した最初の人になりました。
主の到来を最初に宣言する恵みを得たのは、まだ生まれる前の子供だったのです。驚くべきことだと思いませんか。
本当に神はわたしたちのことが好きでたまりません。たとえば、どんなに罪が多くても、ゆるしの秘跡にあずかれば清められて戻れるのです。これ以上に大きな愛がありますか?それは人が理解しきれないものなのです。イエスはくりかえし言っておられます。「わたしが愛したようにあなたがたも愛し合いなさい」わたしたちもイエスのようにゆるさなければなりません。
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