わたしたちは神の似姿として
人となられたイエスの似姿としてつくられています。
すべての子供は、もっとも偉大なことのためにこの世に生まれます。
- 愛し、愛されるためです。
いのちのほかならぬ初めから
いのちが生じたその瞬間から
受胎のときから
そのいのちは神のいのち
- 生きている神のいのちなのです。
だからこそ、いのちの抹殺はひどい悪事なのです。
- それは神の似姿の破壊だからです。
イエスの愛を学ぶのに一番よい道、確実な道は家庭である。
何であれ
あなたたちが家族の中ですること
子供のためにすること
夫のためにすること
妻のためにすることは
イエスのためにすることです。
家族がともに祈るならば、家庭の一致は保てます。その家族は互いに愛し合うでしょう。五分間、一緒にいるだけでいいのです。
「天にましますわれらの父よ」と始めるだけでいいのです!
「主よ、あなたを愛します。
主よ、お許しください。
主よ、あなたを信じます。
主よ、あなたに頼ります。
あなたがわたしたちを愛してくださるように
わたしたちも互いに愛し合えるようお助けください」
と祈ればいいのです。
祈りを通じて学びあうとき、そこからあなたがたの力が生まれてきます。
現代社会のトラブルの多くは家庭の崩壊が原因です。母親も父親も忙しすぎて家にはいません。
子供たちが学校から帰ってきても、そこには
自分たちを迎えてくれる人も
かまってくれる人も
励ましてくれる人も
一緒に喜んでくれる人もいないのです。
子供たちは、自分たちを受け入れてくれる人
愛してくれる人
ほめてくれる人
誇りに思ってくれる人を求めています。
そのような人がいなければ、子供たちは路上をうろつきます。そこには子供たちを狙っている大人がたくさんいます。こうして、子供は餌食になるのです。多くの憎しみと破壊は、子供と家庭のつながりが断ち切られたところに生じるのです。聖母とヨセフのように、わたしたちも子供を探しに出かけなければなりません。イエスが行方不明になったとき、彼らは来た未知を戻って探しに行きました。決して座り込んで待っていたわけではありません。見つけ出すまで、休みも取りませんでした。
わたしたちも子供を連れ戻し、彼らがあいされていることを感じさせなければなりません。
子供のいないところには希望もありません。
ある時、とても悲しげな様子をした婦人がやってきました。彼女は、夫と子供を亡くした娘のことをわたしに話しました。その娘は母親に八つ当たりをして、母親と目を合わそうともしないというのです。
わたしはこのように言いました。「それでは、娘さんが子供の頃、好きだった小さなことでも思い出してみてはいかがですか。たとえば、花だとか、食べ物だとか。そして見返りを期待せずに、それらのものを娘さんに差し上げてみるのです:」
それからというもの、その母親は、たとえばテーブルの上に娘の好きな花を飾ってみたり、きれいな布地を娘のためにそこに置いたりしました。娘の反応は期待せずに。
何日かたって、娘は母親を呼んでこのように言いました。
「かあさん、来て、大好き!一緒にいて」
それはとても美しい光景でした。
子供時代の喜びを思い出すことによって、その娘は、家族との絆を取り戻したのでした。きっと、その娘には母の愛の幸せと喜びに戻れる幸福な子供時代があったのでしょう。
愛は家庭から始まります。
もし四六時中ともに生活している人を愛せないのなら
どうやって一度しか会わない人を愛することができるでしょうか。
思いやりや親切によって
喜びを分け与えることによって
ほほえみを投げかけることによって
ささいなことを通してでも愛をあらわすことができます。
幼い子はなんの困難も障害もなく愛することが出来ます。
だからイエスはこう言われたのです。
「幼子のようにならなければー」
両親が神のことを話題にするのを聞くことは、子供にとってとても大切なことです。
子供はきっと神について尋ねるようになるでしょう。
いつだったか、ある共産党員にひとつの祈りを教えたことがありました。彼が家族にそれを伝えると、子供たちはその祈りをするようになりました。
後にわたしと会ったとき、彼はこのように言いました。「マザー・テレサ、あなたの祈りや写真が、どれほど家族を揺さぶるものであるか知らないでしょう。わたしの子供は、神様ってどんな方、としきりに尋ねるのです。マザー・テレサが何でこんなふうに神について話ができるのか知りたがるのです。」
子供たちは飢えています。
だから私たちが一緒に祈らなくてはならないのです。
祈ること、互いに愛し合うこと。
悲しみを分かち合うこと、一緒に喜ぶこと。
両親が手本を示せば、子供たちがこれらのことを忘れることは決してないでしょう。
子供たちはじっと見ています。
そして、見ながら成長していくのです。
自分たちの生き方の大切さを、子供たちは親の生き方を見ながら学んでいくのです。
神はご自分の愛の証をさせるため夫と妻と子供たちを家庭に送られました。
かつて、私は六歳か七歳の女の子を路上で保護し、「シシュ・バビン(子供の家)」に連れて行きました。そこで、その子を風呂にいれ、着替えさせ、ごちそうしました。ところがその晩、彼女は逃げ出しました。
二度、三度とその子は保護されましたが、その度に逃げ出すのです。
三度目のときは、シスターにあとを追ってもらいました。そのシスターはその子がお母さんと妹と一緒に木の下に座っているのを見つけました。小さな皿を前にして、お母さんは道から拾ってきたものを料理していたのです。
彼らはそこで料理をし、食事をし、眠るのです。
そこが彼らの家なのです。
それでその子が逃げ出した理由がわかりました。お母さんはその子を本当に愛しているのです。そして、その子もお母さんのことが大好きなのです。二人はお互いに、とても大切な存在なのです。
その子は「バリジャポ(ここがわたしの家なの)」と言いました。
お母さんこそ、彼女の家だったのです。
何百人という数のアメリカやヨーロッパの若者が、ヒンズー教に魅せられて
ここインドにやってきます。若者は何かを求めているのです。
わたしはいつもこう問いかけます。
「イエスではもの足りないのですか?」
若者たちにイエスの姿を示さなくてはなりません。
彼らが顔を上げてイエスを見つめることができるように。
そして、彼らが家庭の中にイエスを発見することができるように。
現代社会には、愛する喜びを枯れさせる多くの要因があります。人々は、あり余るほど持っていても、さらに物を欲しがります。人々は不満で一杯なのです。
六、七人の子供をかかえたオーストラリアのある家族は、互いに話し合った上で、新しいテレビを買わないことにしました。彼らは一緒にいられることの喜びを大切にしたかったのです。家族のメンバーがそろっていられるだけで十分だったのです。
テレビを買うはずだったお金をアボリジニーの貧しい人たちのために役立てて欲しいと、その家族はわたしに送ってくれました。
こうして、その家族は、分裂のもとと考えられる何かに、言い換えれば、愛する喜びを妨げるものに打ち勝つことができたのです。そしてその家族は、一緒に分け合うこと、
話し合うこと
笑うこと
愛すること
冗談を言い合うことを学んだのです。
家族全体が喜んでいるのです。
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