Wednesday, July 14, 2010

イエス - いのちの糧

主のおられるところには、喜びがあり、平和があり、愛があります。

わたしたちのいのちが愛と喜びに満ちたものとなるために、イエスは御自分をいのちの糧とされたのです。

イエス以外のだれもこのような仕方で自分自身を与えることはできません。そして主はご聖体のうちにいつでもいてくださるのです。

わたしたちに求められているのは、それに気づくことだけです。


イエスははっきろと言われました。

わたしは、あたなが愛すべき愛、生きるべきいの、分け与えるべき喜びである。

わたしは、あなたがたべなくてはならないパン、飲まなくてはならない血、語らなくてはならない真実、灯さなくてはならない光、与えなくてはならない平和である。

イエスはわたしすべてなのです。


イエスはいつもそこにおられます。
わたしたちを愛し、わたしたちに分け与え、わたしたちの人生の喜びとなってくださるために。
イエスの愛は無条件で、やさしく、ゆるしに満ちていて、完全。
損得を計算せず、限度を置かず、見返りを求めない。
イエスは傷ついてまでもお与えになるのです。

まことの愛は傷つきます。
ある子供は、愛するがゆえに苦しみました。
三日のあいだ砂糖をなめるのを我慢したからです。
父なる神は痛みを負いました。
最愛の子をお与えになったからです。
イエスも痛み負いました
あなたとわたしを愛するために。


人々があなたのうちにイエスを見ることができるような生き方をしなさい。
あなたの祈りのうちに、あなたの清い生き方のうちに、あなたの家族との接し方のうちに、あなたの家庭にあふれる平和のうちに。
その時、あなたは彼らの目をまっすぐに見て言うことができます。
「これが生き方だ」と。
あなたは生活をとおし、体験をとおしてイエス物語っているのです。


何週間か前のこと、パリ大学に在学中のフランス人女性がこちらに来ました。彼女は博士号を目指して勉強中でした。いきなり彼女はわたしのところに来て言うのです。「イエスを見つけました」と。わたしは聞き返しました。「見つけたって、どこで」「死を待つ人の家で」「イエスを見つけてから、どうしましたか?」「わたしはゆるし秘跡を受け、ご聖体を拝領しました」彼女は十五年もの間、秘跡から遠ざかっていたのです。「それから?」「両親に電報を打ちました。『わたしはイエスを見つけた』と」

はるばるパリから来て、死を待つ人々と出会い、彼女は主を見つけたのです。


聖母にとって天使のお告げは、イエスが彼女の人生の中に入って来られた時でした。それは、マリアにとって「初聖体」の日だったのです。

マリアはこのあと素晴らしいことをしました。イエスが胎内にいることを知ったマリアは、すぐに出かけました。身ごもっていた、いとこのエリザベトのところに行ったのです。エリザベトの胎内の子がその時どうしたか、知っているでしょう。

キリストと出会って喜び踊ったのです。その子はイエスの到来を宣言した最初の人になりました。

主の到来を最初に宣言する恵みを得たのは、まだ生まれる前の子供だったのです。驚くべきことだと思いませんか。


本当に神はわたしたちのことが好きでたまりません。たとえば、どんなに罪が多くても、ゆるしの秘跡にあずかれば清められて戻れるのです。これ以上に大きな愛がありますか?それは人が理解しきれないものなのです。イエスはくりかえし言っておられます。「わたしが愛したようにあなたがたも愛し合いなさい」わたしたちもイエスのようにゆるさなければなりません。

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