わたしたちのしている仕事は、イエスへの愛が行動となってあらわれたものにほかなりません。
それは貧しい人のみじめな姿をとっておられるキリストへの心のこもった自由な奉仕なのです。貧しい人の中でも最も貧しい人である、キリストへの贈り物です。
わたしたちにとって仕事が祈りになるならば、イエスに向けて、イエスのために、イエスと共にするならば、わたしたちは満足なのです。
「神の愛の宣教者会」の会員たちが世の中のまっただ中にあって真の観想者である、わたしが思う理由はここにあるのです。
わたしはイエスのためにしていると信じているので、この仕事をするのです。これは確かに主の仕事です。そうです、これは主の仕事であって、わたしの仕事ではないのです。
神を愛していることどのように証明したらいいのでしょうか。キリストを貞潔と徹底した愛で愛していることをどのように、あらわしたらいいのでしょうか。それは貧しい人のたちの中でも最も貧しい人に全力で心から奉仕することによってです。それは主ご自身への奉仕なのだと、わたしたちは信じています。もし主のためでなかったなら、何の意味も持ちません。ニューデリーの社会福祉省の大臣はヒンズー教徒です。あるとき彼はわたしにこう言いました。「あなたとわたしは同じ社会事業をしています。でも大きな違いがあるのです。わたしたちは<何か>のためにこれをしているのに、あなたたちは<誰か>に向かってしているのですね」その通りです。これがわたしたちの働く理由なのです。
もしもあなたが貧困について論じ合う人々にかかわっているなら、貧しい人に話しかける時間はなくなってしまいます。ある人たちは飢餓について議論しますが、わたしのところに来て「マザー、この5ルピーでこの人たちにパンを買ってあげてください」と言ってはくれないのです。それでいて、彼らは飢餓について見事な弁舌で聴衆を感動させるような話をするのです。
ボンベイの町で、こんな強烈な体験をしたことがあります。あるときそこで飢餓についても大きな会議がありました。わたしはそれに参加しようと思っていたのですが、道に迷ってしまったのです。会場に着くと、そこ死にかかっている一人の男の人を見つけました。何百人もの人が食料問題と飢餓について会議をしているその扉のすぐ前で。
わたしは彼を抱き上げ、家につれて帰りました。彼はそこで息を引き取りました。その人は飢えで死んだのです。
人々が扉の向こうで、今後十五年間にどれくらい食料が得られるとか何とか話し合っているその時に、あの男の人は死んでいったのです。
どこか間違ってはいませんか。
主が来て、しばしの休息をとることができる - わたしたちは、そのようなナザレの家をここにつくりたいのです。イエスはわたしたちの中の一人としてとどまるために、貧しくならなくてはいけなかったのです。
イエスは、必要とされない、愛してもらえない、相手にしてもらえない、そんな人の気持ちを知るために、小さく、そして弱く、助けを必要としながら誰にも頼れず、孤独な人となる必要があったのです。
母マリア以外に、彼が誰であるかを知る人はいなかったのです。イエスは大工ヨセフ息子とみなされ、人々はナザレから優れた人物が出るはずはない、と言ったのです。
神がこの世界を愛しておられることを宣言するために、わたしたちは小さく無力な人になる - これがわたしたちのしようとしていることなのです。これがわたしたちの宣べ伝えようとしている「よき知らせ」なのです。
思いやりと分かちあいは共同体をつくりあげるものです。小さなことをとおして大きな愛を目指す - それはほほえむことバケツで水を運ぶのを手伝うこと、食卓でのちょっとしtが気づかいかもしれません。小さな、小さなことなのです。
そして、互いに分かち合い、かかわりあい続けること - ミサを共に、聖体拝領を共に、礼拝を共に、ゆるしの秘跡を共に受けること、これによって人々の苦しみを分かち合い、理解し合うことができるためです。わたしたちは何でも共にします。それがわたしたちの持つ力なのです。
シスターたちはいつもほほえんでいます。わたしたちはとても自由です - 本当に自由です。
物質的な心配に人々はどれほど、ふりまわされていることでしょうか。多く持つことが幸せとされている先進国の世界でわたしは何度となく見たのです。どんなに着飾っている人々でも、実は本当の乏しさにあえいでいることを。
何も持たないことにより、わたしたちはすべてを与えることができるのです。 - 貧しさという自由を通して。
わたしたちの召し出しは、何もだれもわたしたちを主から引き離すことができないという確信をもって、主に属する者となることです。イエスは、愛とやさしさと生涯にわたる誠実な親しい友情をわたしたち一人ひとり結んでくださいました。イエス自身がわたしたちを花嫁として迎えてくださったのです。
だからわたしたちもキリストへの貞潔における徹底した愛を、わたしたちの存在を通して行動にうつさなくてはならないのです。この行動的な愛とは、貧しい人たちの中でも最も貧しい人にする奉仕です。わたしの存在は祈りの生活、キリストとの交わり、キリストとひとつになること、ご聖体のうちに生きておられる方を行動に生かすことなのです。
主は善を行いながらいきめぐられました。だから、わたしたちも今、主にならいたいのです。なぜなら、神がわたしたちを通して世を愛しておられることを信じているからです。神はかつてご自分の愛、ご自分の現存を示すためにイエスを世に遣わされたように、今日この時、わたしたちを遣わしているのです。
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